「散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
これは、玉(ガラシャ)が辞世の句として詠んだ歌です。
「花であっても人であっても、散るべき時を知っているからこそ美しい」という意味です。
戦国時代の中でも、最もつらい体験をしながらも、信念を貫き通して生きた明智光秀の娘『玉』についてお伝えいたします。
明智光秀の娘である細川ガラシャの基本情報
細川ガラシャの生誕や死没など
・名前:明智 玉/珠 (アケチ タマ)(後にキリスト教に改宗してガラシャに)
・生誕:1563年 父 明智光秀 母 妻木熙子(ひろこ)の三女として越前で誕生
・死滅: 1600年8月25日 (36-37歳)
・配偶者:細川忠興
・宗教: キリスト教
細川ガラシャの生涯
・1563年: 生誕
・1578年: 細川忠興と結婚
・1579年: 長女(ちょう)の誕生
・1580年: 長男(忠隆)の誕生
・1582年: 本能寺の変が起こる。山崎の合戦後、丹後味土野に幽閉される
・1583年: 次男(興秋)誕生
・1584年: 細川家の大阪屋敷に戻る
・1586年: 三男(忠利)誕生
・1587年: キリスト教の洗礼を受けて、ガラシャと名乗る
・1588年: 次女(たら)誕生
・1600年: 夫、細川忠興が上杉征伐に出征中石田三成が挙兵 人質になることを拒否し、細川家大阪屋敷にて死去
15歳の時に結婚した細川ガラシャ
1578年, 信長の勧めで、明智光秀の次女(三女の説もあり), 玉(珠)(たま)は、15歳のときに、細川藤孝の嫡男である細川忠興(ただおき)と結婚します。
忠興の父, 細川藤孝は、光秀と共に義昭を将軍につけるために奔走し、後に信長の家臣となり尽力する光秀の盟友です。
玉の婚姻は、まわりにも祝福を受け、また、すぐに子宝にも恵まれ、幸せな家庭を築いていきました。
「本能寺の変」で人生が一変する細川ガラシャ
本能寺の変
1582年, 光秀は信長から毛利家と戦っていた羽柴秀吉を支援をするよう命じられ、6月2日早朝に出陣しますが、途中、家来たち総勢13000人に信長を討つように命じます。
光秀軍は、信長が滞在していた本能寺を取り囲み、100人足らずの信長の手勢を倒し、信長は自害します。
細川藤孝に援軍要請をする明智光秀
本能寺を討つことを決心した光秀は、盟友であり、娘, 玉の嫁ぎ先である細川藤孝に援軍を要請しますが、藤孝は援軍要請を断り、出家し、家督を忠興に譲ります。
光秀は、信長を倒したのち、秀吉と対立関係があきらかになった際にも再度、藤孝に援軍を要請しますが、藤孝は応じませんでした。
細川ガラシャの苦悩
味土野(みどの)に幽閉される細川ガラシャ
父, 光秀が秀吉に山崎の戦いで敗れ死去し、本能寺の変から3カ月ほど経つころ、玉は忠興に離縁され、丹後半島の山中にある味土野(現在の京都府京丹後市)に幽閉されます。
信長を裏切った逆心の娘としてレッテルを張られた玉に対して、細川家にとっては、秀吉から細川家が疑われないようにするため、あるいは、恨んだ信長の家臣からの襲撃を防ぐために幽閉を除いて、玉を救う多くの選択肢はなかったのでしょう。
本能寺の変の後、玉が細川家の家臣から自害を勧められる場面もあったようですが、「忠興からの命ではない。」として断った話も伝えられています。
幽閉期間は約2年にも及びますが、秀吉のはからいで、「忠興と玉の婚姻は信長公の意向」として幽閉を解くように細川家に提案があり、玉は開放され、忠興と復縁することになります。
幽閉時の細川ガラシャ
幽閉されることになった玉の心にもいろいろな気持ちが去来したことでしょう。
・父親, 光秀や兄弟の死への悲しみ
・なぜ、父親が信長に反逆したのかへの疑問
・嫁ぎ先の舅である藤孝や夫である忠興が光秀の援軍要請に応えなかったのかの疑問
・我が子の現在の状況への心配
・なぜ、自分が幽閉されることになったのかの理由 などなど
いずれにしても、玉の心は、悲しみと辛い思いで一杯であったのではないでしょうか?
それらの思いは、幽閉が解かれた後も続いていたのかもしれません。
細川ガラシャはキリスト教へ改宗
幽閉を解かれ、通常の生活を取り戻した玉であったが、キリスト教に改宗することになります。
元々は、禅宗を信仰していました。
玉がキリスト教へ興味を持ったきっかけとして語られているのが、夫から聞いたキリシタン大名の高山右近の話や侍女として玉に仕えていた清原マリアがキリスト教に改宗したことが影響したと言われています。
玉の経験してきた多くのことから考えると非常に辛い人生であり、何かに救いを求めたい気持ちになったであろうことは想像に難くはないものの、実際にどんな動機があり改宗したのかは語られていません。
確かに味土野に幽閉されていたものの、その間に忠興との間に3人の子供をもうけるなど
夫婦仲が悪かったわけでもなかったようです。
いずれにしても、玉のキリスト教への想いは非常に強く、それをきっかけに夫、忠興とも衝突しました。
玉が初めて教会を訪れたのは、1587年で夫,忠興が九州征伐のため出陣して留守にしていた時でした。
玉は、コスメ修道士にすぐに洗礼を受けたいと訴えるものの、その場での洗礼は叶わなかったのです。
ちょうど、その年、九州に駐屯していた秀吉は、バテレン追放令を出し、キリスト教への取り締まりが厳しくなっていくころでした。
玉は、再度、改宗を強く求めます。
そして、大阪に滞在中のセスペデス神父の計らいで自邸で洗礼を受けると、ラテン語で「神の恵み」を意味するガラシャという洗礼名を授かることになりました。
深まる忠興との溝
九州から帰還した忠興は、玉がキリスト教に改宗したことを知り激怒します。
刀を喉元に突き出されても玉の考えは変わらなかったと伝えられています。
忠興の目には、玉が妄信しているように写っていました。
玉には監視役がつけられ、キリスト教徒であった玉の侍女のマリアも追放されました。
離婚のことも考えた玉でしたが、キリスト教では離婚が認められていません。
玉は、現在の生活を受け入れることを選択しました。
細川ガラシャ(玉)の最後
1598年に秀吉が亡くなると、次第に勢力は徳川家康へとシフトしていきます。
また、 秀吉の子の秀頼を盛り立てようとする石田三成と家康との摩擦も顕在化していきます。
1600年家康をリーダーとする上杉討伐が始まると、忠興も家康について参戦します。
旧豊臣家の家臣たちの多くは、秀吉の大阪城の周りに屋敷を構えていました。
細川家もその中のひとつでした。
上杉征伐中に石田三成が挙兵する可能性も予想されており、忠興は出陣する前に家臣たちに言葉を残して出陣します。
「妻の名誉に危険が生じたならば、妻を殺し、全員死ぬように」と。
そして、石田三成は大阪で挙兵します。
最初に取った行動は、家康と共に上杉征伐に出陣した旧豊臣家臣たちの屋敷を包囲し、武将たちの妻子を人質にすることでした。
光成軍が細川屋敷を包囲すると、ガラシャは家臣にふすまのこの部分を槍で突くように命じると裏のふすまの前に腰かけ手を合わせます。
そして自身の胸を突かせて、一生を終えました。
細川ガラシャについてのまとめ
光秀の娘として生まれた玉(ガラシャ)の人生は壮絶なものでした。
謀反人の娘として幽閉され、また、夫の反対も押し切りキリストの教えも貫きました。
多くの子供を残し、細川家の名誉も守りました。
玉(ガラシャ)が、つらい経験を克服し続けることができたのは、もちろんキリスト教の信仰による救いもあったかもしれませんが、光秀の子としてのプライドと自身の意思の強さがあったからこそだと思います。