秀吉と光秀は、織田家家臣の2トップでした。
どちらも信長の信頼が厚く、この二人があってこそ、織田家の天下統一の夢が現実のものになったと言っても言い過ぎではないでしょう。
後に光秀は本能寺の変で信長を討つことになりますが、信長を討った光秀も秀吉に山崎の戦いで討たれることになります。
今回は、織田家の家臣であった秀吉と光秀のどちらの貢献度が高かったのかや、秀吉と光秀が協力して信長を守った話を紹介させていただきます。
豊臣秀吉の生涯
名前, 出生地等
・名前: 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
(信長の家臣になる前の名前は木下藤吉郎(きのした とうきちろう)
・生誕: 1537年3月17日
・出生地:尾張の中村 (現在の名古屋市中村区)
・死滅: 1598年9月18日
・職業: 織田信長の家臣, 後に関白
生涯の概略
・1537年 生誕
・1554年 織田信長の家臣になる (秀吉 17歳)
・1566年 墨俣(すのまた)一夜城の築城, 蜂須賀小六を家臣に持つ (秀吉30歳)
・1567年 竹中半兵衛が家臣に加わる (秀吉31歳)
・1570年 金ヶ崎の戦いで殿(しんがり)を務める(秀吉34歳)
・1573年 小谷城を攻め落として長浜城主になる (秀吉 37歳)
・1575年 長篠の戦いに参戦 (秀吉 39歳)
・1577年 信長から中国の毛利攻めを命じられる
・1582年 備中高松城の水攻め
本能寺の変が起こり, 信長が自害
山崎の戦いで明智光秀を破る (秀吉46歳)
・1583年 賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破る (秀吉 47歳)
・1585年 関白になる (秀吉 49歳)
・1590年 北条氏を滅ぼし天下統一を達成 (秀吉54歳)
・1598年 伏見城で亡くなる (秀吉 62歳)
信長の家臣としての光秀と秀吉の比較
生い立ち
【光秀の場合】
光秀は、美濃の「土岐明智氏」の出だとされる説が有力です。
しかし、光秀が守っていた明智城は道三の子, 斎藤竜興に攻め滅ぼされます。
これがきっかけとなり、光秀は美濃を去らなければならないことになります。
そして、その後は諸国放浪の浪人生活をおくることになります。
順調な青年時代ではなかったようです。
【秀吉の場合】
一方の秀吉は、尾張, 中村の農民の生まれであると言われています。
織田家に仕官する17歳になるまで何をしていたのかの記録はなく、家業の農家の手伝いや
光秀のように放浪生活をしていたのかもしれません。
【どちらが有利?】
安定した時代であれば、生い立ちから見た場合, 光秀の方が武家に仕官するのには有利なように見えますが、彼らが生きた時代は乱世の真只中であり、特に信長は能力や人物を重視する実力主義派であったので、生い立ちが良いから光秀を採用したわけでなく、あくまで信長が光秀の能力, 秀吉の能力を自身で確かめて目に留まったからでしょう。
1560年代までの光秀と秀吉のキャリア
【光秀のキャリア】
1560年代の光秀の一番の実績と言えば、やはり、信長と足利義昭の間をつなぎ、1567年に信長の上洛と義昭を将軍にすることを達成したことです。
当時、義昭を復帰させる大名候補は各地にいました。京都に近いところで言えば、朝倉家, 西には毛利家, 尾張から東になると、上杉謙信や武田信玄もそれぞれの地で活躍していました。
織田家は、義昭を将軍職につける役割を果たしたことで実際に全国統一の道筋が開けます。
数ある候補の大名の中から将軍家の後援者として織田家を選んだのは光秀でした。
また、織田家の中で、他に誰が将軍家とのパイプ役を果たすことができたでしょうか?
信長の上洛を実現できる人物は光秀を除いて、他にいなかったと言えます。
【秀吉のキャリア】
信長が上洛を達成した1567年ごろ, 秀吉が何に携わっていたかというと、信長の長年のライバルである美濃の攻略です。
信長が尾張から美濃, 近江へと進んで京の都へ達するためには、墨俣(すのまた)の地(現在の岐阜県大垣市)の地を美濃の斎藤家から奪う必要がありました。
墨俣は、4つの川(揖斐川・長良川・犀川・五六川)に挟まれる三角州となっており、交通と運搬の重要拠点でした。
当初, 信長は、攻撃と防衛の拠点になるようこの墨俣に砦を築くよう, 重臣である佐久間信盛に命じましたが、砦を築く際に斎藤家に攻められ断念します。
次に命じられたのが、やはり重臣の柴田勝家でしたが、やはり、斎藤家の攻撃を受けて前に進みませんでした。
そこで手を挙げたのが、藤吉郎(後の秀吉)でした。
藤吉郎は、地理に詳しい蜂須賀小六(はちすかころく)の力を借りて築城に着手しました。
築城が成功した大きな理由は、木材など必要な資材を木曽川, 境川の水運を利用して墨俣に運び、夜の内に組み立てたからです。
そのため、この墨俣の砦は「一夜城」と呼ばれるようになりました。
これにより織田家は重要拠点を手に入れることができたのです。
【どちらが有利】
秀吉が築城した墨俣の砦は、信長が京へ上るのにあたって必須の場所であり、秀吉の頑張りの結果だと言えますが、やはり、義昭と信長を結び付けて上洛することを達成した光秀の方が織田家の躍進を世間に認めさせたビッグイベントであり、織田家の中でも一番の活躍者だと認められていたことでしょう。
よって、この1567年時点では、光秀こそ織田家No.1の家臣だったと言えるでしょう。
ただ、秀吉にとっても実りのある時期だったのではないでしょうか?
1566年には、蜂須賀小六を家来にして、1567年には、竹中半兵衛が信長の家臣としてではなく、秀吉の家臣に加わります。
秀吉の活躍の前期のメンバーがこの時期に形成されていったのです。
光秀と秀吉が協力した”金ヶ崎の退き口”
信長の戦いと言えば、今川義元と闘った”桶狭間の戦い”や武田勝頼と戦った”長篠の戦”を
思い出す方も多いと思いますが、織田軍でも撤退せざるを得ない戦いもありました。
実はこの戦いで、光秀と秀吉が協力して信長の最大のピンチを救ったのです。
「退き口」って何? 「殿」って何?
① 「退き口」(のきぐち)とは戦国時代に撤退線(退却戦)の方法やその戦いのことです。
② 「殿」(しんがり)とは退却する軍列の最後尾にあって、敵の追撃を防ぐこと。
また、その部隊のことです。
なぜ, 信長は朝倉家を攻めたのか?
1)信長が朝倉家を攻めるきっかけになったのは、上洛して足利義昭を将軍に就任させた信長でしたが、度重なる連絡にも関わらず、朝倉家が無視して京へあいさつに来なかったという見方がある一方
2)信長に反感を持っていた大名や寺社仏閣などを決起させて信長を挟み撃ちにしようとした義昭の画策であったという見方もあります。
”金ヶ崎の退き口”とは?
信長は同盟相手の徳川家康と共に、越前の朝倉家を攻め、朝倉家の天筒山城と金ヶ崎城を落とします。
その直後, 近江の浅井長政が挙兵します。
浅井家は信長にとっては妹のお市(いち)の嫁ぎ先, しかし, 市が婚姻する際の条件として
信長は浅井家と同盟関係の朝倉家を攻めないということも約束していました。
いずれにしても, 朝倉家と浅井家に挟まれて攻撃された場合, 信長の敗北は明らかでした。
そこで、信長は、京経由で岐阜に逃げることを決断し、殿の役目を秀吉と光秀に任せます。
秀吉が自分から進んで殿の役目を引き受けた。という説もありますが、はっきりした記録はありません。
はっきりしているのは、殿を任せられるだけ, 信長が秀吉と光秀を信頼していた。ということです。
徳川家康も殿に加わったという説もありますが、家康は信長の同盟軍ではあったものの
織田家の家臣ではなかったため、「家康殿説」は、現在,否定される場合もあります。
最終的には、信長も無事に岐阜に戻り, 秀吉, 光秀もサバイバルに成功しました。
信長, 秀吉, 光秀, 家康と織田軍の最強のメンバーで臨んだ朝倉攻めでした。
麒麟がくるの秀吉についてのまとめ
皆さんご存知の通り、1582年 光秀が本能寺で信長を討った後、光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ, 秀吉が天下統一を達成して関白になります。
1587年に「バテレン追放令」を出した秀吉。
秀吉に対しての恨みもあったかと思いますがポルトガル宣教師 ルイスフロイスは日本史の中で下記のように秀吉を評しています。
“こうして(秀吉は)地歩を固め企図したことが成就したと見るやいなや、彼はがぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことはなんら構わぬのみか、為し得ること万事において(信長)を凌(しの)ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。”
光秀は、最終的に「本能寺の変」で信長を討ちますが、信長の上洛をはじめ、光秀の信長や織田家に対しての忠誠心は本物であったと思いますし、秀吉の信長に対しての想いやひたむきさも偽りのない本当の姿だったと思います。
しかし、信長の死後、織田家を滅ぼしたのも秀吉ですし、フロイスが語っている通り、秀吉が信長を意識して信長よりも勝りたいという気持ちがあったことも事実だと思います。
秀吉の人生は、信長の生前は実際の信長を常に意識し、信長の死後は、信長の影を意識しながら生きたということではないでしょうか?
秀吉は完全な信長コンプレックスだったのではないでしょうか?
秀吉に関する歴史番組やドラマを見ると、秀吉の行動が信長の生前と死後では、まるで別人のように見えることがあります。
どちらも秀吉の本当の姿なのでしょうが、もし、このまま信長が天下統一を果たしていたら、秀吉の行動も違っていたのではないでしょうか?
皆さんは、どう思われますか?