足利幕府の最後の将軍になったのが足利義昭です。

足利義昭を将軍に就任させるために尽力したのが明智光秀であり、上洛の後ろ盾になったのが織田信長でした。

しかし、足利義昭が将軍に就任した後、足利義昭と織田信長の関係は、悪化していきます。

今回は、足利義昭と明智光秀との関係、足利義昭と織田信長との関係や関係の変化を中心にお伝えいたします。

足利義昭の基本情報

生誕や死没など

・名前:足利義昭 (あしかが よしあき)

・生誕:1537年11月13日 第12代将軍, 足利義晴の次男として生まれる。(幼名は千歳丸)

・死滅: 1597年 大阪で死去(61歳)

・兄:第13代将軍 足利義輝

足利義昭の生涯

・1537年 誕生

・1542年 仏門(興福寺)に入り、覚慶と名乗る

・1565年 兄の足利義輝が暗殺されると、奈良に幽閉される (義昭 29歳)

その後、細川藤孝らに救出され、諸国を放浪

・1568年 織田信長の後ろ盾で室町幕府15代将軍になる(義昭 32歳)

・1570年 各大名に信長討伐令を出す (義昭34歳)

・1573年 信長に捕らえられ京から追放される。(義昭37歳) 室町幕府滅亡

・1597年 大阪で死去(義昭61歳)

足利義昭の兄の死去と幽閉からの脱出

応仁の乱以降、室町幕府の武家や国司のリーダーとしての統率力は次第に落ちてゆきましたが、それでも各地の国司が幕府をリーダーとして認めていた時代である1537年に義昭は将軍家の次男として誕生しました。

将軍家では身内で家督争いが起こらないように長男が将軍になる慣習があり、義昭の兄である義輝が第13代将軍に就任しました。

義昭は6歳で出家して仏門に入り、覚慶(かくけい)と名乗っていました。

しかし、義昭29歳の時、事件は起こります。

兄の将軍, 足利義輝と母, 弟が三好三人衆によって暗殺されると、義昭は興福寺に幽閉されます。

しかし、一色藤長や細川藤孝らによって救い出され、近江の甲賀軍に身を寄せます。

その後、転々とするものの朝倉義景を頼って越前に入りました。

足利義昭と明智光秀との関係   

今後の方向性に迷う足利義昭側

越前の朝倉義景を頼って身を寄せた以上、普通に考えれば、義景を後ろ盾として上洛, 将軍就任を目指すのが自然ですが、義景にはその意思が考えられず、誰を後ろ盾とするかが足利義昭側の課題でした。

当時、明智光秀は優れた頭脳の他にも鉄砲の扱いにも非常に精通しており、朝倉義景の元に仕官していたという説もあると同時に、足利義昭の側近である細川藤孝の家臣だったという説もあり、実際のところははっきりしていません。

いずれにしても、明智光秀は、側近である藤孝と共に足利義昭を将軍に就任させる役目を担っており、後ろ盾にする大名を探し、足利義昭に提案する立場でした。

織田信長を後ろ盾にすることを主張したのは誰?

細川家に残された文書によれば、「朝倉義景に頼るのではなく、織田信長を後ろ盾にすることを提案したのは、明智光秀であった。」と伝えられています。

実際に、足利義昭の使者として、当時, 岐阜に移っていた織田信長を訪れ、足利義昭が京へ戻れるよう交渉したのが明智光秀でした。

そして、1568年9月、織田信長軍と浅井長政軍に警護され足利義昭は京へ戻り、10月に第15代の将軍に就任しました。

足利義昭と織田信長の関係

二人の目指す方向性の違い

足利義昭にしてみれば、織田信長は自身を京に戻し、将軍職につけてくれた英雄であり、大恩人。

後に織田信長を”父”と呼ぶことで、そのことは表現されています。

また、足利義昭は織田信長の能力や実力もきちんと認めていたはずです。

しかし、足利義昭が目指したのは将軍家による統一であるのに対して、織田信長が目指していたのは、織田家による全国統一による平和な社会の実現でした。

足利幕府が開かれた時代には、幕府は諸国のリーダーとしての役割をきちんと果たしてきたものの、その後の幕府の動きは弱く、応仁の乱を引き起こし、下剋上の社会を招いたことに、織田信長は将軍家にも責任があったと考えていたのかもしれません。

ただ、多くのドラマで語られているのとは異なり、織田信長も将軍家に対して敬意を払っていた記録はいくつもあります。

「殿中御掟」とは何?

足利義昭が将軍に就任した翌年、三好三人衆が京都の足利義昭を襲撃するという事件が起こります。

襲撃に対して、明智光秀と細川藤孝は六条本圀寺で決死に防戦し、岐阜にいた織田信長もすぐさま馬を駆って2日で上洛します。

その事件の4日後に織田信長が足利義昭に宛てた書状が「殿中御掟」です。

この書状の中身は、足利義昭の側近の服務規程と、天皇への報告の制限に関した規定9条で、2日後に7条が追加されることになります。

この書状に示された規定は、もともと、室町幕府の規定に基づいた内容となっており、足利義昭はすぐに内容に承認したと言われています。

足利義昭の就任後の幕府

足利義昭が将軍に就任した後、将軍家の幕臣による寺社領の横領がたびたび発生し, 幕臣たちは傲慢になっていきました。

織田信長が「殿中御掟」を足利義昭に宛てた理由のひとつが、自分の家臣の行動に無関心な足利義昭を諫め、家臣たちの横暴で社会不安を引き起こすような行動を制限するためだったとも言われていますし、実際に残された文書を読んでみると、足利義昭の権力を削ぐ目的であったとは思えません。

織田信長包囲網

五ヶ条の条書

「殿中御掟」が承認された後も結局、足利義昭は自らの政治を改めようとしませんでした。

足利義昭にとって、織田信長はわずらわしく、うるさい外野に見えていたのかもしれません。

それに怒った織田信長は、足利義昭に五ヶ条の条書を送り付けます。

内容は、

1) 室町幕府が発行する書面には、織田信長の書状を添えること。

2) 天下のことは織田信長に一任し将軍の承認なしに実施できること。

なども含まれていた。

「殿中御掟」と異なり、明らかに織田信長が足利義昭自身の行動を制限し、実権を織田信長に譲渡することを意図するものであったように読めます。

信長包囲網

五ヶ条の条書がきっかけになったのか、将軍足利義昭は諸国の大名や寺院に呼びかけ、信長を討つように命じました。

足利義昭の呼びかけに応じた諸大名たちは1570年には、次々に信長討伐に動き出します。

・朝倉軍
・浅井軍
・三好三人衆
・石山本願寺
・比叡山延暦寺

そして織田信長は包囲網の相手を次々に打ち破っていきました。

また、当時最強と言われていた甲斐の武田信玄も上洛を決心します。

武田信玄は、三方ヶ原の戦いで、織田信長と同盟していた徳川家康を軽々と倒した後、京へ向かいますが、途中、病死します。

足利義昭が頼みにしていた武田信玄が病死し、足利義昭は織田信長に降伏し、京都を追放されることになりました。

これを以て、足利幕府は滅び、足利義昭は最後の将軍になったのです。

足利義昭についてのまとめ

足利義昭は、将軍家の次男として誕生しました。

そのため、6歳から仏門に入り、そのまま生涯を終える予定でした。

しかし、将軍であった兄,義輝が暗殺されると義昭の人生は完全に変わってしまいました。

義昭の側近であった細川藤孝や明智光秀によって、織田信長に助けを求めると信長は義昭の夢であった上洛と義昭の将軍職への就任を実現させます。

しかし、やがて義昭は信長と対立するようになっていきます。

最終的に、義昭は京を追放され、室町幕府は滅亡することになったのです。