端午の節句といえば、男の子にとって大切な節句となっています。
しかし、改めて端午の節句とはどのようなものなのか、そもそもどんな歴史があるのか知らない方も多いのではないでしょうか?
そこで今回は、端午の節句について、由来や歴史についてご紹介していきます。
是非、端午の節句を迎えるお子様にも教えてみてくださいね。
端午の節句の始まりは?
端午の節句は中国から始まりました。
その歴史はとても長く、2300年前にまで遡ります。
起源は中国の戦国時代から
端午の節句の起源となったものが誕生したのは、今から約2300年前の頃。
当時は中国は楚と呼ばれており、戦国時代でした。
この時に国王に仕えていた屈原という政治家がいました。
屈原は国や国民のことを常に大事に考えてくれる政治家だったこともあり、国民からも非常に親しまれた人でした。
しかし、とある陰謀により屈原は国を追われてしまうことになり、この国の行く末に絶望した屈原は、汨羅という川に身を投げ、亡くなってしまいました。
それを知った楚の国民達は、船で汨羅の川へ向かい、屈原の死体が魚に食べられないように、太鼓を打って魚を驚かせたり、ちまきを投げたりしたそうです。
そして、いつしかこの風習は行事として行われるようになり、舳先に龍の首飾りをつけた船で競争するといった行事も行われるようになりました。
そして、これは今でもドラゴンレースとして行っているところもあります。
そして、この出来事をきっかけに、屈原の命日でもある5月5日に、供養としてお祭りが行われるようになり、この風習は中国全体に広まっていきました。
さらに、人望があった屈原を惜しんだ人達は、毎年ちまきを川に投げ入れ、国の平和を願うようになっていきます。
やがてこの風習は、厄除けという意味を込めた宮中行事として行われるようになり、端午の節句へと変化していきました。
そして、三国時代の魏の時代に、旧暦の5月5日を端午の節句と定められた後、日本に伝えられました。
端午の節句が5月なのは他にも理由がある!
屈原の命日が5月5日だったというのも、理由の1つですが、他にも理由があります。
まず、5月は気温の変化が激しく、急に暑くなったり肌寒くなったりする日が多く、それによって昔の人は病気になり、亡くなってしまうケースが非常に多くありました。
その事から、5月は「毒月」とも呼ばれるようになり、この時期になると家の門の前に菖蒲やヨモギの葉を刺しておいたり、薬用酒やちまきを食べて免疫力を付けたりしたそうです。
そのため、病気にならずに健康に過ごせますようにという意味を込めて、この時期な端午の節句が行われるようになったとも考えられています。
日本における端午の節句とは?
中国から伝えられた端午の節句ですが、日本ではどのように考えられていたのでしょうか?
そこで、今度は日本における端午の節句の考え方についてご紹介いたします。
日本における端午の節句はいつなのか?
そんな端午の節句が日本にやってきたのは奈良時代の頃でした。
そもそも「端午」というのは、月初め(端)の午(うま)の日という意味であり、5月に限定しているものではありませんでした。
その後に午と五が同じ「ご」であるということから、当初は毎月5日のことを端午と呼んでいましたが、次第に「5月5日」と限定するようになりました。
端午の節句の定番である菖蒲に込められた意味とは?
端午の日は、季節の変わり目に当たることが多いこともあり、病気や災厄を祓うための行事が行われていました。
主に厄除けの効果があるとされている菖蒲を飾っておいたり、皇族の人達にはヨモギなどの薬草が配られたり、病気や災いから人々を守り、厄を祓うという意味を込めて馬に乗って弓を射る儀式も行われていたこともありました。
特に菖蒲は邪気を祓う薬草として信仰されていたこともあり、ヨモギと一緒に軒に刺したり、菖蒲湯にして浸かることもしていました。
それほど季節の変わり目である端午の節句は重要視されていました。
五月人形やこいのぼりが誕生したのは?
今でいうこいのぼりや五月人形を飾るという風習になったのは、江戸時代の頃からです。
その前の平安時代の頃では、子ども達は菖蒲で飾った紙の兜を身に着けて、石合戦などをしていたそうです。
そして江戸時代に入ると、紙や木で作られた菖蒲人形というものを庭先などに飾るのが定番になっていきましたが、時代が流れるにつれて、人形を室内に飾るという風習になり、人形美術としても注目されるようになりました。
ちなみに「こいのぼり」の歴史は室町時代からだとされています。
室町時代では端午の節句になると、竹竿に布を張って吹き流しとして立てていたのが記録に残っています。
そして江戸時代になると、一般庶民の間でも紙で鯉のぼりを作成して竿に付けて高く上げていました。
鯉は元々立身出世という意味も込められており、鯉の滝登りという意味を込めて、こいのぼりを掲げていました。
そしてそこには子どもがのびのびと元気に育ちますようにという親の願いが込められています。
何故端午の節句は男の子の行事になったのか?
端午の節句としての行事は、昔から行われていましたが、鎌倉時代に入って武士が政権を握る時代になると、この風習も少しずつ衰退していきました。
しかしその間でも、武士の間では「菖蒲」が非常に人気で、これは武を貴ぶという意味が込められた「尚武」にちなんでいるということで、端午の節句では尚武の日ということでお祝い行事を行うようになりました。
そして時代は江戸時代になり、この頃から5月5日は徳川幕府にとっても大切な日として認識されており、この日になると式服を着用した大名や旗本が全国から江戸城に集まって将軍にお祝いを奉じていました。
さらに将軍家に男児が誕生すると、表御殿の玄関前に馬印や幟を飾ってお祝いをするという風習が誕生しました。
この風習により、平安時代の頃にあった邪気を祓うという風習から男の子の誕生をお祝いする風習へと変化していきました。
そして、この風習は武家だけではなく一般庶民の間でも広まっていきました。
当初は玄関前に吹き流しや幟を立ててお祝いをしていましたが、時代が流れるにつれて、厚紙で兜や人形を作って飾ったり、武者絵なども一緒に飾るようになりました。
そして江戸時代中期になると、武家の幟に対抗するかのように、町人の間でも鯉のぼりが飾られるようになりました。
端午の節句とは?のまとめ
端午の節句が誕生したきっかけは中国の戦国時代の頃、屈原という人物が大きく関係していることがわかりました。
そして日本に伝えられた時の端午の節句は、当時は邪気を祓い、病気や災厄から身を守るという意味として行われていました。
そして、男の子のお祝いをするという意味の端午の節句になったのは、江戸時代の頃からでしたが、それまでには様々な形の端午の節句が行われていたようです。
五月人形やこいのぼりにも歴史があり、しっかりとした意味が込められていることもわかりました。
是非、お子さんに端午の節句とは何かと聞かれた時には、これらの歴史や由来について教えてあげてください。